なぜ数学は嫌われるのか(第4回)
証明とは
「AならばB」という条件文は数学でよく使われる。
様々な言い換えはあるものの、数学は公理や定義から始めて、この条件を繋げていき様々な性質・定理を獲得していく。
ほぼ自明に出てくる事実だけであれば問題もないのだが、自明でない事実が登場するときには必ず「証明」を要する。
「証明」とは、AとBという2つの事実が繋がる理由を論理的に説明していくことである。
数学の研究は事実・予想に対して証明をつけていくことであると言っても過言ではない。
✳︎よく勘違いされるのだが、大学以上で学ぶ数学は高校数学のように「〜の値を求めよ」などという問題を解いていくわけではない。もちろん値を求めるとかもあるが、あくまで証明の途中で求めるに過ぎず、数学の本質ではない。
中学校や高校で学習する例を1つ。
2つの整数が偶数ならば、は偶数である。
この主張には2つの事実(=点)がある。
①が偶数 ②が偶数
なぜこの2つの事実が繋がるのだろう。これらをつなぐ作業が「証明」である。
簡単なので証明してみよう。
【性質の証明】
は偶数なので、あるが存在して、, である。このとき、
より、は偶数である。 □
この主張、具体例を考えれば自明だが「どのような偶数の和も再び偶数になる」ということを説明するには、一般的な議論が必要であり、上の証明の黒い部分が必要となる。
*具体例が数個であれば全ての組み合わせを計算していけば良いが、偶数の組み合わせは無限個存在するので具体例を散々計算しても証明したことにはならない。
多くの中高生はこの証明を見た瞬間にポカーンとする。
我々は説明も加え、最終的に「自分で書いてね」と要求するが、大半の者たちは書こうともしない。
そして「意味がわからん」と言う。
意味がわかるようになるには、同じ証明を何回も書くしかないし、考え続けるしかない。
訓練しなければ書けるようになるはずがない。
訓練しなければ理解もできない。
この訓練から中高生は逃げていく。なぜなら「キツイこと」だから。
数学の教員は毎度のように人間の弱さを目の当たりにする。
点と点をつなぐ訓練
事実同士を結ぶ(=点と点をつなぐ)には数学の証明のような論理的記述が必要である。
もちろん、「正しくない」という結論に至ったとしても「なぜ正しくないのか」を論理的に記述しなければならない。
実社会でも様々な問題に直面した時に、「なぜこの問題が起こるのか」という疑問から背景にある事実を積み重ね、問題の本質を見抜こうとする。そして解決策を見出す。
これは感情論でも同様のことが言えるであろう。
Aさんが怒っている。
↓
どうもお菓子がなくなっていると言っているようだ。
↓
そういえば、私が昨日勝手にAさんのお菓子を食べてしまった…(°_°)
↓
まず謝罪して、同じものを2個買おう。 ゴメンナサイ…。
といった感じだろうか。(例が悪い!と言われる可能性大。)
感情だろうが、事実だろうが、物事には必ず原因がある。
そして生まれた物事を繋いでいけば、新たなる発見に繋がる。
自分の中だけで留めておきたいのであれば、特に何もせずに記憶にとどめておけばよい。
しかし、大半のことは誰かに伝達することになる。
では、どのように伝達するのか?
ここで利用する技術の一つに「論理的な伝達」がある。
簡単に言えば、「◯◯だから、Aになる」というように理由(条件)と結論を積み重ねて物事を伝えることである。
説明や話が意味不明なとき、大半の場合は論理的に説明できていない。
理由と結論いずれか一方がぼやけてしまうと、話としてまとまりがなくなってしまい、伝えたいことがうまく伝わらない。
話が上手い人と上手くない人の差はここにある。(あくまでも私の経験上の話)
「この技術を習得するのは中高生のうちに!」と思う。なぜなら、この訓練をするのは中学校や高校までだから。
その他伝えたいことは同僚が以下の記事に書いているので是非。
物事を論理的につなぐ訓練が数学。自分の考え方を伝える訓練の一つが数学。
私から言えば、キツイことせずにできるようになることはない。(何もせずに出来たら潜在的な才能であると言っても過言ではない。)
訓練だからキツイこと。そして人間は逃げていく。
数学が嫌われる一つの原因だと最近は思う。
第5回に続く。